<沿革>

(写真、記事とも、ほとんどを昭和49年度発行の「友呂岐」北小学校百年誌から転載)

明治7年10月1日 創立
第百三十八番小学校 茨田郡三井村本厳寺 (三井、郡、田井、国松地区)

北小学校の前身の誕生

今から140年ほども昔の1874年(明治7年)10月1日、現在枚方市になっている中振村というところにあった第69番小学校からわかれ、三井の本厳寺に第138番小学校ができた。これが、北小の誕生である。

本厳寺校舎跡                  開校当時、本厳寺堂宇前での卒業式
 




明治8年7月10日 校名変更
三井小学校  三井村へ校舎移転 

明治8年5月7日三井小学になり、三井村のあたらしい校舎に移った。その時の校区は、田井村、郡村、三井村(のちに国松村も加わる)で、大体現在の田井小学校、第五小学校、三井小学校、北小学校の校区をあわせた地域だった。出来上がったころの人数は分からないが、明治15年の人数は、先生2人(岡田護先生、西井庄一郎先生)男子72人、女子44人、計116人であった。

明治初年 三井小学校時代            
   
  

1900年(明治33年)に明治23年の「小学校令」が改正され、「小学校施工規則」が初めて定められた。尋常小学校を4年に統一し、4年の義務制が初めて実現した。明治40年には尋常小学校を6年にする義務教育制度が成立した。

そのころの証書と成績表
  



明治20年4月1日 校名変更
三井尋常小学校


明治33年4月1日 校名変更
友呂岐尋常小学校


明治41年4月1日 校名変更
友呂岐尋常高等小学校  現在の北小の位置へ校舎移転 
(木屋、三井、田井、郡、石津、太間、平池、友呂岐七ケ村合同)

待ちに待った待望の新校舎落成。1908年(明治41年1月19日)、その前年に義務教育制度が6年になったことをきっかけに、岡田校長は町の有力者と相談して新校舎設立の運動を起こしたことが沿革誌にも克明に記されている。
古老の話によると、そもそも北小が現在の地に移ったのも、明治18年の大洪水で今の八尾街道(当時は堤防といっていた)まで淀川の水が浸水し、池や砂山がたくさんできた。男子はこの砂山の砂をトロッコで運び、女子は野球のバットくらいの棒を持って地かためをしたようだ。これを千本づきといって、音頭をとったり歌を歌ったり、村中総出で地固めをしたそうだ。

友呂岐尋常高等小学校落成式


新校舎



学校建設に力を注いだ村の有力者




昭和16年4月1日 校名変更
友呂岐国民学校


昭和19年4月1日 校名変更
寝屋川北国民学校


昭和22年4月1日 校名変更
寝屋川町立北小学校


昭和26年5月3日 校名変更
寝屋川市立北小学校

昭和32年 旧校舎全景




    昭和27年4月1日
    寝屋川市立第五小学校が分離(三井、郡地区)   


    昭和41年4月1日
    寝屋川市立池田小学校が分離(桜木一部校区)


    昭和42年4月1日
    寝屋川市立中央小学校が分離(平池地区)


    昭和44年4月1日
    寝屋川市立木屋小学校が分離(太間、木屋地区)


    昭和45年4月1日
    寝屋川市立田井小学校が分離(石津、田井地区)